以前、整骨院の先生が書いた本を読んでいたら「頭で食べる」という表現に出くわしました。
納豆はダイエットにいいから……という理由で、あまり食べたくないけど納豆を食べる……これを「頭で食べる」と先生は言っています。
そういえば、納豆ダイエットって、昔はやったよなあと思ったので、「頭で食べる」というフレーズが印象に残ったわけです。
結婚もおなじで、おそらく「頭で結婚する」という表現ができるでしょう。
相手の条件を値踏みしまくって結婚する……これを「頭で結婚する」と呼んでもいいのかもしれません。
「頭で結婚する」の反対語は、カラダで結婚するということでしょうか?
エッチの相性が合いまくって結婚した……ということではなく、カラダで結婚する。つまり主に計算をはたらかせて結婚するか、心で感じるものがあって結婚するか、ということ。
頭は計算で、カラダは五感と言われるように感じるものだからです。
計算と、心で感じること、ちょうどいい塩梅を
たいていのひとは、計算と、心で感じることの両者をうまく「寄せて」ゆき、ちょうどいい塩梅の彼と結婚するのだろうと思います。
それに、なにも計算づくの結婚が悪いということもない。
人生は長いわけですから、旦那さんにしっかりと稼いできてもらわないと困るとか、両親のめんどうは誰が見るんじゃ?
という、超が3つも4つもつくようなリアルな問題に答えていこうと思えば、計算はできないよりできたほうがいい。著者のように、その日暮らしの仕事をしている場合ではないのです。
心で感じることが不足している
さて、掲題の「ガチで結婚できない女子が考え直したほうがいいこと」ですが、それは心で感じることが不足しているということ。
心のセンサーが鈍っているので、そこをガチでどうにかしたほうがいいのでは? ということです。
結婚したことのある女性に話をお聞きしたとき、わりとよく聞くのは、「結婚したいと思ったときに、結婚しやすい身近な男子と結婚した」というものです。
結婚したい! という渇望は、ひとによってはセックスしたいという渇望に似ているほど、強烈で身体的なものだったりするのでしょう。
あるいは眠たいときに居眠りしてしまうように、自然な生理現象としての渇望なのでしょう。
そういうとても身体的な渇望が湧いてくるまで待っていれば、おそらくだれでも結婚できるのでしょう。現にそういう女性はいっぱいいるのだから。
もっと感じることに敏感に
でも、そこまで待ってもいられないというかたは、もっと「感じる」ことに敏感になってみてはいかがでしょう。
要するに「心のヒダ」が震えるなにかをする。
音楽会に行けば、まずまちがいなく心のヒダは震えます。生の音というのは、理屈抜きにそういうものだからです。
私たちは、なにかを頭で考えながら生きることを、幼いころから暗黙のうちに強制されていますが、それとおなじくらい(あるいはそれ以上)心で感じるということって大切なことです。
「心で感じる」というのがよくわからないかたは、年末恒例の「(ベートーベンの)第九」を聴きに行くといいかと思います。
近所のおっちゃんやおばちゃんと一緒に今を生きている歓び。
学校や会社の仲間と一緒に生きている歓び。
今日1日、小さなステキなことがあった歓び。
そういう、日常にありふれている歓びを表現しているのが「第九」です。
ありふれた日常のなかで心のヒダが震えたとき、きっと結婚できる状態になっていることでしょう。
結婚って、そういうものです。
おわりに
付言するなら、言葉ですべてを語りつくせないことは、すべて「感じたほうがいい」。
結婚という制度は、制度であるがゆえに言語化されきっています。でも、結婚の実態って、言語化できないことがいっぱいあります。
恋愛もおなじです。
そういうことは、すべて「感じる」ところから、その物語が始まるのです。
(ひとみしょう/ライター)
(婚カツ編集部)
Photo by LIN RU 哥 (改変 gatag.net)